広報誌「GREENS VOICE Vol.3」(2019.June発行)

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GREENS VOICE vol.3

 

フォークシンガー 中川 五郎 Interview

 

音楽の世界を民衆のものに引き寄せた
フォークソングこそ、僕のアイデンティティ!!

 いま最も歌いたい歌は、バラード(物語歌)。
 過去の出来事を通して、「いま」を再認識してほしいから


1960年代半ば、高校生の頃アメリカのフォークソングの影響を受けて、曲を作り、歌い始め、古希を迎えようとする現在も1年の半分近くをライブ活動に注力しているという中川五郎。彼の歌は、「民衆の心と暮らしの真実」に根差した反骨・反権力・反体制の歌からラブソングまで幅広いが、いずれも人の心に直接訴える力がある。その「力の源泉」は何か?! 中川五郎が貫くスタンスやポリシー、曲作りにおけるこだわり、そして歌や音楽にかける思いを語ってもらった。

 

【プロフィール】
1949年、大阪生まれ。1960年代後半に、関西を中心に起きたフォークミュージックのムーブメントにおける代表的人物の一人。フォークキャンプ、中津川フォークジャンボリー、春一番コンサート、ホーボーズコンサートなどでメッセージ色の強い曲を歌い始める。1968年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。1970年代に入ってからは「フォークリポートわいせつ裁判」の被告として「表現の自由」との闘いに費やすとともに、音楽に関する文章や歌詞の対訳などを中心に活動。1990年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。そして、2000年代に入って本格的なライブ活動を再開。ライブ活動をお基軸に、いまなお「フォークシンガー」としての真髄を追求し続けている。


「伝えたい思い」があれば、誰もが歌える世界観こそ、フォークソング

―― 五郎さんの公式サイトを閲覧すると、トップページの最初に「FOLK SINGER」と明記されています。やはり、この言葉には、特別なこだわりがあるのでしょうか?

 

中川 僕は自分がフォークシンガーであることを、自分のアイデンティティだと考えています。その理由は2つあります。1つは、いまから50年以上前に出会ったアメリカのフォークソングに大きな衝撃を受けて、自分もこれをやりたい!! と思い、これからも続けていきたいと思うからです。その衝撃は何かというと、そこに「音楽じゃない音楽」、すなわち音楽というジャンルや定義を超えた、いままで聴いたことがなかった何ともいえない広がりを感じたからに他なりません。それは10代の少年が感じた文学的な表現を含めた要素であったり、歌い手そのものの生き方だったのだと思います。

―― フォークという言葉自体、「民族の、伝統的な」とか「民衆の、民間に根差す」といった意味を持っていますが、当時のアメリカのフォークソングには、そういう志が確実にあったということでしょうか?


中川 実は、それが2つ目の理由です。これまでの音楽は、音楽的に優れた人、才能がある人たちが独占していて、それ以外の人たちは聴き手になるしかありませんでした。つまり、「完成された楽曲」を「専門家が披露する」ということが求められていたわけです。ところが、フォークソングは違っていると感じました。稚拙であろうとも、完成されていなくとも、「伝えたい思い」があれば誰でも歌える世界。1人ひとりの普通の人が、プロとかアマとかの垣根を越えて歌える世界。そこに新しい音楽のカタチを感じて、いまも歌い続けているわけです。

―― そういう意味では、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞は必然であったと?


中川 いや、いわゆる「権威」とは最も遠いと思われていた人が受賞したことについては、違和感を覚えざるを得ませんでした。しかも、多くの人たちがディランの歌詞は「非常に文学的で、高尚である」という評価をしました。そこには、何か釈然としないものがありました。ところが、ノーベル賞の選考委員たちの談話を聞いて、それなりに納得することができました。彼らが文学的価値」以上に、「民衆の間で歌い継がれていく世界を開拓したこと」を評価してくれていたからです。そういう意味で「民謡をはじめとする人民の財産を再構築」してきたディランの功績を認め、人々が考えるいわゆる「拍(ハク)」の延長線上とは一線を画するところにあるのであれば、同意してもいいかなと考えられるようになりました(笑)。


原点はピート・シーガーの「現実に立ち向かう歌」

―― やはり、最も影響を受けたのは、ボブ・ディランだったのですか?


中川 僕に最も影響を与えた人は、アメリカのプロテストソングを牽引したピート・シーガー(Pete Seeger)という人です。彼は、戦後1950年代~1960年代に人種差別や公民権運動、ベトナム反戦運動とシンクロしながら起こったフォーク・リバイバル運動の中心人物で、僕は中学生の頃に彼が1963年に発表した『We Shall Overcome』というニューヨークのカーネギー・ホールで行った歴史的コンサートを収録したライブアルバムを聴いて、自分も彼のような歌を作って歌いたいと思い、フォークシンガーとしての第一歩を踏み出したのです。

―― ピート・シーガーのどこが、五郎さんの心に響いたのでしょうか?


中川 それまでの音楽は、娯楽というか、エンターテイメントであって、極端にいえば「現実から目を背けさせるために楽しむ」という位置付けだったような気がします。
ところが、ピート・シーガーの歌は、公民権運動や戦争反対の運動などといった、問題に対するスタンスを明確にしていて、まさに「現実に立ち向かう歌」でした。そのように、いま起こっている問題に共感する人たちと手をつないだ歌が存在することに、すごく感動して、自分もやりたいと思ったわけです。そういう意味でピート・シーガーの歌が、自分自身の生き方の指針を決めた大きな衝撃であったということは、間違いありませんね。その延長線上にボブ・ディランがいて、初期の頃からとても素晴らしい歌を歌っていたので、やはり影響を受けていきました。

過去の出来事を歌うことで、「何も変わっていない、いまの時代が見えてくる」

―― 五郎さんの曲には、闘争歌や抗いの歌、現実に皮肉を込めた歌、そしてラブソングまでさまざまな様式がありますが、どのように曲作りをされているのでしょうか?


中川 「曲は自然に生まれる」という人もいますが、僕はそうではないと思っています。テーマ主義といわれてしまうかもしれませんが、「歌いたい」と思える何かがあって、それを自分なりに消化しながら「正直な気持ち」を歌にするというのが、僕の基本姿勢です。もちろん、その対極には歌いたいことがなくても、自分の素晴らしい声や演奏を聴いてもらいたいというのもあるけれど、僕は決して上手じゃないから(笑)。
そういう意味では、いま最も歌いたい歌はバラードかなぁ。バラードというとスローなチークダンスを踊るような曲を連想するかもしれませんが、僕のバラードはそうじゃない。物語をベースにした語り歌。僕が影響を受けたピート・シーガーやボブ・ディラン、ウディ・ガスリーなんかもやっているけど、これがバラードの本家本元なんです(笑)。

―― 関東震災後の在日朝鮮人虐殺を歌った「トーキング烏山神社の椎の木ブルース※1」、「一九二三年福田村の虐殺※2」、「ピーター・ノーマンを知っているかい?※3」、などに象徴される曲ですね。


中川 そうそう。1曲20分くらいの長い曲で、メロディーは繰り返しで、過去の出来事や事件を詳しく語ろうとしています。これらの曲は、ライブではできるだけ演奏しようと考えています。過去の出来事から「何も変わっていない、いまの時代が見えてくる」、ということがあると考えているからです。
例えば、関東大震災の混乱の中で、官憲や民間の自警団などにより多数の在日朝鮮人や朝鮮人と誤認された人々が暴行・殺害された事件をテーマにした3部作がありますが、これらの事件をできる限りリアルに歌うことで、100年近く経った現在も「同じようなことが繰り返されているのではないだろうか?」、「事実が捻じ曲げられているのではないだろうか?」ということを問い掛けたいという気持ちで作り、歌っています。
もちろん、過去の出来事だけじゃなくて、最近の出来事にもバラードという物語歌の手法で、曲作りをしていきたいと考えています。ただ、長い曲ばかりなので、ライブでは体力的に1曲やるのが限界ですね(笑)。

詩人や市井の人たちの言葉を歌にすることとの意義と葛藤

―― ご自身の作詞・作曲はもとより、五郎さんは著名・無名を問わずに詩人や市井の人たちの詩を、歌にしているケースも少なくないですよね。例えば、2枚組のライブアルバム「どうぞ裸になってください」には、奈良刑務所の受刑者が作った詩による「言葉」という曲が収録されていています。とってもピュアな詩ですが、これに曲を付けられたのは、何か意図があったのですか?


中川 「言葉」という曲は、社会性涵養プログラムと呼ばれる奈良少年刑務所の更生教育の一環として行われた「物語の教室」で生まれた詩を集めた「空が青いから白をえらんだのです(2010年/長崎出版刊/現在は新潮文庫)」に収められていた受刑者の詩に曲を付けて、歌にしたものです 。受刑者に詩の授業をしていた寮美千子さんと知り合って、「素晴らしい詩がたくさんあるから曲にしよう」というプロジェクトができて、僕もそこに参加したのがきっかけですが、いまではとても気に入っていて、ライブでも良く歌っています。

―― 他人の詩、特に詩人が作った詩に曲を付けるというのは、実は結構、大変な作業なのではないでしょうか?


中川 確かにポエトリーは、雑誌や詩集などで活字になった時点で、完成されているわけです。それだけに、そこに曲を付けるというのはとても神経を使いますね。ただ、僕は昔から詩を読むのが好きで、素敵な詩に出会うと、歌にして届けたいという気持ちになっちゃうんですよ(笑)。
すでに完結しているものに、わざわざメロディーを付けて歌うことに関しては、当然、批判もありますし、自分自身でも余計なことをしているんじゃないかと逡巡したりもします。特に文学的な立場にいる人たちは、いわゆる詩(ポエトリー)と歌詞(リリック)を区別していて、詩は文学的だから高尚で、歌詞は世俗的で大衆的だと受け止めている人も少なくありません。実際のところ、商業的に売るためだけの中身のない歌詞は山ほどあります。まぁ、それは詩もそうなんですけれど(笑)。

―― 詩プラス曲(歌)で補完し合うことで、伝わり方も違ってきますよね。


中川 そうですね。詩の場合、朗読というのがあって、それでもっと言葉が拡がったりもするんですけれど、その一方でプロの声優や俳優が朗読した際に詩を殺してしまうケースもありますよね。
だから、願望かもしれないけれど、詩が持っている意味や素晴らしさを損なわずに歌にできれば、僕はもっと良くなるケースもあるんじゃないかなぁと思ったりもしています。その結果、それまで届かなかった人たちが、素敵な詩に巡り合うきっかけになればいいなぁと。

―― そういう観点から、五郎さんにとって歌にしたい詩って、どういうものなのでしょうか?


中川 僕が歌にしたいと思う詩っていうのは、詩として優れているか否かということではなくて、自分自身がその詩のメッセージに動かされているということが第一義。だから、可能な限り元の詩を変えずに歌いたいと心掛けています。ただし、活字では理解できても、言葉が難解すぎて歌では伝わらないだろうという場合だけは、解釈させてもらう場合もないわけではありません。
もちろん、全部が上手くいくわけじゃないけど、音楽が歌詞と曲を足して100%になるのであれば、僕は詩と曲の相乗効果で、それ以上にしたいとは思っています。まぁ、理想ではありますけれどね(笑)。

自分の表現手段は、最終的にはLive!! そこにしかない“瞬間”があるから

―― 五郎さんは、1年の半分以上をライブに費やして、さまざまな場所で歌っていらっしゃいます。その一方で、アルバム作りもしているし、カメラマンの岡本尚文さんとのコラボレーションで、「Dig Music Gazette」というインターネットを通じての音楽・映像配信もされています。まさに多彩というか、多面的な音楽活動の中で、五郎さんが基軸に置かれているのはどこなのでしょうか?


中川 僕はわりとはっきりしていて、自分の表現の場っているのは、間違いなくライブ活動だと思っているんです。いろんな人たちに来てもらって、聴いてもらうっていうのが一番だし、それしかないなぁと感じています。そのためにはライブをするしかないですからね。
もっとも、僕はアルバム作りにはあまり熱心じゃないというよりも、執着心がない(笑)。
もちろん、アルバム作りにこだわるアーティストが多い理由も分かるんですよ。普段使えないミュージシャンにお願いしたり、ライブとは全然違うアレンジをやってみたりして、自身の可能性を拡げていくっていうのも1つの方法だと思うからです。
でも僕の場合は、アルバムを作るにしても、普段、自分がやっている音楽を、そのまま記録したいと考えてしまう。だから、どうしてもライブアルバムが多くなっちゃうし、スタジオ録音するにしても音を重ねていくタイプじゃなくて、基本的に一発取りが多いですね。そうなると、CDを買っても「Liveと変わらないじゃない」ということになってしまって、ありがたがられないんじゃないかなぁと思ってしまいます(笑)。

―― つまり、常に自分のスタンスを変えたくないってことですよね。意固地なんですね。


中川 そうかもしれませんね(笑)。ライブよりもアルバムに基軸を置いて、1年に1枚くらいの間隔で内容を充実させて、自身の変化や進歩を確認していくっていう方法も悪くはないと思います。けれども、僕の場合はいろいろなところで歌っている「普段のままの自分の歌」が大切だと思うし、それが基本だと考えているところはありますね。

―― その一方で、五郎さんの唄はYouTubeなどにもたくさんアップされていて、聴こうと思えばいつでも聴ける環境へと変わっていっていますよね。その辺りについては、どう感じられているのでしょうか?


中川 確かにそうなんですが、僕は第3者がライブを録音してアップしたりするのはご自由にというスタンスでいます。ただ、バーチャルで完結してしまうのと、実際のライブで聴くのとでは、全く異なる世界であることは確かです。

―― その意味で、「Dig Music Gazette」というインターネットでの音楽・映像配信は、実験的な意味合いを持っているのでしょうか?


中川 これについては、これまで15本くらい制作してきましたが、カメラマンの岡本さんがスタジオを用意してくれて、ある程度の演出や意図もあるという点で、YouTubeなどにアップされている記号的な記録とは少し異なるんです。中川五郎という存在と歌をより多くの人たちに知ってもらいたい、届けたいという触媒的な意味合いもあるにはあって、いい感じではあるんです。でも、僕はやっぱりライブかな(笑)。

―― ライブっていうのはある意味「瞬間」で、まったく同じライブっていうのはあり得ませんからね。


中川 そこなんです。会場に行って、その場で聴くというのは、それぞれ条件が異なるわけです。時には狭いライブハウスで窮屈な思いをしたり、不愉快な思いをしたりもするかもしれませんが、その時のライブは、その1回限り。仮に同じ歌を歌っても、場所や雰囲気、そして物理的な時間が違うから、「その時の歌」になるんです。それは歌っている僕も一緒で、いろんな意味で勉強になったり、課題をもらったりすることは、やっぱり楽しいし、面白い。
だから60代の頃は年間200くらい、70代を目前にしたいまも年間150くらいのライブ活動をやめられない。結果、「また、次があるから」と、聴きに来る人も少なくなってしまうというジレンマもありますけれど、僕はLiveの回数を減らして1回で50人に聴いてもらうんだったら、5人でもいいから10回やりたいと思っています(笑)。それを無駄な動きという人もいるし、実際に体力的にはきつくなっていることは事実ですけど、できる限り、こういうスタイルを続けたいと考えています。


原発・沖縄・憲法……。いまの問題を共有できる歌を創りたい!!

―― 五郎さんは、原発や沖縄、憲法などの集会などでもよく歌われていますが、その真意はどこにあるのですか?


中川 昔から政治集会やバリケードなどに引っ張り出されて歌っていましたからね(笑)。ただ、本当に「歌」と「運動」がいい関係にあるかというと、決してそうではないケースも少なくありません。特に昔は酷くて、いわゆる客寄せや余興にしか思っていない人もたくさんいました。だから僕はいまも、その「いい関係って何だろう?」ってことを模索し続けています。それは、主催者と歌い手がお互いに考えるべきことだと思っています。

―― そういう集会などの場では、どのような歌を選んで歌っているのですか?


中川 まさかラブソングを歌うわけにはいかないから(笑)、それなりに選んで歌っています。ただ、日本ではそういう連帯の場で、みんなで心を共有できる歌が、日本には少ないことを憂慮しています。いまだに「インターナショナル※4」を歌ったりしているわけですから(笑)。確かにこの歌には力があるとは思いますが、2019年のいま、どういう心境で一緒に歌えばいいのか、正直言って複雑でした。もしかすると、日本の現在に即した新しい闘争歌や抗いの歌、プロテストソング、メッセージソングが出てこないのは、僕たちフォークシンガーの責任もあるのかなぁって実感しているところです。

―― でも、五郎さんは常に変化していて、2011年3月11日の東日本大震災後、原発の問題が顕著化した際には、「We Shall Over Come」を新しい歌詞で歌いましたよね。


中川 皆さん、よくご存じの曲だと思いますが、原曲は黒人のメソジスト牧師でゴスペル音楽作曲家のチャールズ・ティンドリーが1901年に発表した霊歌「I'll Overcome Someday」で、1960年代にアメリカで公民権運動が高まる中でピート・シーガーが広め、運動を象徴する歌になって、「勝利を我等に」という邦題で日本でも多くの歌い手が歌っています。
でもこの時、僕は「勝利」を優先する歌としてではなく、「1人ひとりの力で乗り越えていく歌」にしたいと思って、「We Shall Overcome 2012 大きな壁が崩れる」というタイトルを付けました。また、この歌の主語は「We」ですが、それだと「1人ひとり」が消えてしまうと感じたし、「Over Come」には「勝利する」という意味もあるけれど「乗り越えていく」という意味もあるので、「1人ひとりが手をつないで、みんなで大きな力にして立ち向かい、大きな壁を崩そう」という意味合いの新訳で歌いました。ここでいう「大きな壁」とは、大切なことをひた隠しにして、何もせず、被災者たちを見捨てていこうとする僕たちの国の権力者や既得権益者たちであり、そういう「壁」を何とか壊したい、「We Shall Overcome」のメロディーでいまの日本を歌いたいという思いで作りました。最後の方では「大切なもの」として、「便利な暮らしなのか、みどりの自然か」と問い、 「100年後に生きる子どもたち」と結びましたが、現実問題として福島の原発事故はたった100年では絶対に解決しない問題。だから、本当は「10万年後」くらいの歌詞を付けたかったのですが、それでは現実感が伴わないので、皆で共有できると思われる範囲で留めました。でも、実際には、そういう重たい問題なんですよ。

―― 五郎さんが歌う世の中の理不尽や不条理に抗う歌も、とてもインパクトを感じます。それは、どういうスタンスから生まれているのでしょうか?


中川 例えば、沖縄のことでいうと僕はいわゆる大和人(やまとんちゅう)。実際に、当事者である沖縄の人から、「お前は沖縄に住んでいる人間じゃないんだから」と批判されたりもするわけです。また、差別などによる冤罪問題や在日朝鮮人の問題にしても、僕たちは当事者ではないわけです。だけど、僕たちだって同じ人間としての共通の認識や怒り、憤りがある。その意味で、僕は先ほど上がっていた「ピーター・ノーマン」という人のことを、僕はすごく意識していて、彼の精神を受け継いでいきたいと考えています。
彼は、当時「白豪主義」を唱えていたオーストラリアの元短距離陸上競技選手で、1968年のメキシコシティーオリンピックの男子200mの銀メダリスト。その時の金メダリストと銅メダリストは、アフリカ系アメリカ人のトミー・スミスとジョン・カーロスで、両選手は星条旗が掲げられる表彰台で、黒人公民権運動の象徴であるブラックパワー・サリュート(黒い拳を高く掲げる敬礼)を行いました。それに呼応して、ピーター・ノーマンは白人ながらも二人の行動を支持し、「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」のバッジを着けて同じ表彰台に立つわけです。その結果、彼は選手生命を絶たれ、生涯不遇な生活を余儀なくされことになるのですが、まさに当事者ではないけれど、理不尽や馴染人間として不条理への抗いに共感し、意思表示した彼を、僕は尊敬するし、当事者であるかどうかではなく、自分でどう関わるのか、関われるのかを考えながら、自分のやり方で沖縄に関する歌や差別に抗う歌を歌い続けていきたいと考えています。慰めやきれいごとの歌では、何も前に進まないと思うから、それは何らかの痛みを伴う歌になるんじゃないかなぁと思います。

―― アルバム「どうぞ裸になってください」には、ジョン・レノンの「イマジン」も収録されています。これは何か意図があるのですか?


中川 意図というわけではないけれど、この曲ってお花畑の「理想主義」にすぎないじゃないかということで結構、誤解されているでしょ。僕は「イマジン」を否定する人は、「憲法9条」の平和主義を認められない人たちだと思っています。でも、「理想」っているのは、雲の上で絵を描くことじゃなくて、現実の中で見つけていくものでしょ。だから、「憲法9条」だって、現実を踏まえて育てて、力を与えていくものだと信じています。そういう意味では、残念なことに、日本では守れるほど、育っていないのかな? でも、大事なことなので、危機感を抱きつつ、守るべき力を育て、拡げていく方向に前進させていいかなければならないと実感しています。

音楽の力を信じ続けながら、力の限り歌い続けていきたい!!

―― 先ほど、運動や活動の場で「日本にはみんなで共有できる歌がないことを憂慮している」とおっしゃっていましたが、それはどういう時に実感されるのですか? また、そういう歌はどうすれば芽吹くのでしょうか?


中川 東日本大震災の被災地で歌った時など、被災者の人たちは僕の歌には全く耳を傾けてくれなくて、復興支援ソングの「花は咲く」に、みんな涙しちゃっているわけ(笑)。個人的には、あの歌はただの綺麗事でしかないと思っているのだけど、それに負けちゃうんだから、悔しくて、悔しくて……。
ただ、被災者の方々とみんなで「ふるさと」を歌ったりすると、僕自身も何か言霊に触れてしまうところがあって、それを頭脳警察のパンタさんに話したら、「そうだよね」と共感してくれました。そこで、「僕が作詞するから、曲を付けてね」という構想を進めているのですが、いまのところ彼が気に入る歌詞ができなくてとん挫中です。でも、そういう曲は絶対に必要だと思うので、いまはそれも目標の1つに置いています。

―― 最期になりますが、五郎さんは「音楽の力」というものを、どうお考えですか? 今後の活動の方向性を含めてお話しください。


中川 僕自身、子どもの頃から音楽を通じて感動したり、心を揺り動かされたりといった震える体験を何度も経験していて、それはこの年齢になっても変わりません。そういう意味で、音楽は直接的ではないかもしれないけれど、結果として社会を変える力を持っていると確信しています。それは、じわじわと浸透していくものだとは思いますが、音楽が1人ひとりの生き方や考え方を変える作用を持っているからです。政治的なメッセージやスローガンが世の中を変えると思っている人たちもいるとは思いますが、僕は音楽に限らず、文学や映画、写真、絵画など、「表現」するものはすべて、それ以上に世の中を変える力を持っていると思います。
今後については、もうすぐ70歳を迎えるロートルなのですが、残酷なことにますますやりたいことが増えてきて困っています(笑)。でも、やっぱり一番は、歌いたいってことかな。守りには入りたくないので、どれだけいい感じで歌い続けられるか。それが、いまの僕にとっての希望というか、抱負ですね。

 

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註)
※1:関東大震災後の1923(大正12)年9月2日の午後9時頃に、甲州街道沿いの東京府千歳村烏山で起きた朝鮮人労働者虐殺事件を描いた歌。世田谷の烏山神社におけるデマの流布による朝鮮人への暴力を描き、起訴された加害者が晴れて村に戻れたことを「祝して」植えられた椎の木が、いまなお「変わろうとしない」日本を見つめているという物語。

※2:同じく関東大震災後の1923年9月6日に、関東大震災後の混乱および流言蜚語が生み出した社会不安の中で、香川県からの薬の行商団15名が千葉県の旧「東葛飾郡福田村三ツ堀」で地元の自警団に暴行され、9名が殺害された「福田村事件」の真実を描いた歌。

※3: オーストラリアの元短距離陸上競技選手で、1968年のメキシコシティーオリンピックの男子200mの銀メダリスト。白人でありながらも、アフリカ系アメリカ人の金メダリストと銅メダリストに共感して、表彰台の上で黒人公民権運動を支持する行動をとる。その結果、選手生命を絶たれ、生涯不遇な生活を余儀なくされる彼の勇気と悲哀を描いた歌。

※4:旧ソビエト連邦において、十月革命(1917年)から第二次世界大戦(1944年)まで国歌になっていた社会主義・共産主義を代表する曲。1896年にフランスのリールで開催された労働者の世界大会で演奏され各国に伝わり、日本でも労働歌として広く歌われていた。


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