広報誌「GREENS VOICE Vol.2」(2018.OCT発行)

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GREENS VOICE vol.2

 

映画監督 金 聖雄(キム・ソンウン) Interview

 

理不尽で不条理な経験をしてきた人だけが有する
「輝き」にスポットライトを!!

  「在日だから」ではなく、「自己の確立」という意味で、
  アイデンティティを大切にしたい


「SAYAMA みえない手錠をはずすまで(2014年)」、「袴田巌 夢の間の世の中(2016年)」、「獄友(2018年)」と、冤罪3部作を発表し、ドキュメンタリー映画の監督として独自のポジショニングを築いてきた金聖雄監督。創作の原点は何か?!  そして、何が監督を掻き立てるのか?!
その内面に迫ってみた。

 

【プロフィール】
1963年6月7日、大阪・鶴橋生まれ。大阪の大学を卒業後、1年間のサラリーマン生活を経て、”自分探し” のために上京。1988年~90年まで東京の吉森写真事務所にて料理写真家の助手を務めた後、フリーの助監督となり、ドキュメンタリー演出家の呉徳洙、伊勢真一などの作品に参加。2004年、川崎市に暮らす在日韓国・朝鮮人のはんめ(おばあちゃん)たちの日常を追った記録映画「花はんめ」で映画監督デビュー。その後、2014年に狭山事件で別件逮捕された石川 一雄氏とその妻・佐智子さんの仮出所後の3年間に寄り添った「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」、2016年に袴田事件の再審決定により釈放された袴田 巌氏が拘禁症によるダメージを抱えながら、徐々に日常を取り戻していく姿を描いた「袴田巌 夢の間の世の中」、2018年に足利事件”の菅家利和氏の釈放をきっかけに、同じ“殺人犯”の濡れ衣を着せられた布川事件の桜井昌司氏、狭山事件の石川一雄氏、袴田事件の袴田巖氏の人生と友情に迫る「獄友」と、冤罪3部作を発表し、ドキュメンタリー映画の監督として独自のポジショニングを築いている。


 

「近寄ってはいけない街」も自分にとっては日常そのもの

―― 東京オリンピック前年の1963年生まれということですが、この年はスティーブン・ソダーバーグ(アメリカ)、岩井俊二、クエンティン・タランティーノ(アメリカ)、ミシェル・ゴンドリー(フランス)など、多くの映画人を輩出しています。何か道理はあるのでしょうか?

 偶然ではないでしょうか? とはいえ、是枝裕和監督も前年の1962年生まれ。確かに因縁を感じますね(笑)。
僕自身は、特に大きな影響を受けたというわけではありませんが、ゴジラやガメラなどの怪獣映画には夢中になっていましたね。ちなみに僕は、ガメラ派。マイナーな感じが好きでした。それに当時の怪獣映画は、ゴジラが社会問題となっていたビキニ環礁の核実験に着想を得て製作されたり、ガメラが国籍不明の原爆搭載機の墜落により閉じ込めていた氷が割れて覚醒するなど、社会派的な着想がありましたよね。何かしらの影響はあったのかもしれません。
そういうところと関係なく、エンターテインメントとして純粋に好きになったのは、やっぱりブルース・リーの主演映画かな。やんちゃでしたから、あの強さに憧れました(笑)。

―― 東京オリンピックを契機に、新幹線や高速道路など、戦後東京の姿は大変貌しました。お生まれになった大阪・鶴橋はどのような様子でしたか?


金 日本最大の在日韓国・朝鮮人街と言われる鶴橋には、在日1世を中心に長屋が立ち並び、まだまだ独特の世界観が色濃く残っていました。まさに集まって、蠢(うごめ)いている感じですね。日本人が住む地域とは、お互いに「裏町」と呼び合っていました。空気感としては、大阪の釜ヶ崎や東京の山谷と似ていたかもしれません。とにかく独特な雰囲気があったと思いますよ。
そのため、日本人からは「近寄ってはいけない街」と言われていましたが、そこで生まれ育った僕にとっては、それが日常。だから、まったく違和感がない場所でした。学校も日本の学校に通っていたので、特に「在日」という意識も持っていなかったように思います。

―― その意識が変わったのは?


金 高校くらいになると、いわゆる外国人登録証の指紋押捺に対する拒否運動が盛んになりました。また、日本が国際人権規約に加入した1980年を境に、いわゆる通名から本名に改名する人たちが増え、僕自身も高校時代に現在の名前に変更しました。これら一連の流れを通じて日本の中での自分の立ち位置は何となく感じましたが、在日2世の僕にとっては、まだモヤモヤっとした状態で、むしろ日本人の友だちと一緒にサーフィンやロックに夢中になっていました。
ただ高校を卒業した頃に偶然、後々、師匠となる金 佑宣(キム ウソン)監督[もしくは金秀吉(キム スギル)監督? =要確認 ]が手掛けた「潤(ユン)の街」という映画の撮影をアルバイトで手伝うことになるんです。この映画は、大阪の下町に暮らす16歳の高校生・潤子という在日三世と日本人青年の純愛を描いた作品なんですが、手伝っているうちに自己投影したり、感情移入していたことは鮮明に覚えています。

―― 「在日」のアイデンティティが芽生えたということですか?


金 「在日」という強いアイデンティティを実感したというのとは、少し違います。日本で生まれ育った在日二世だからかもしれませんが、いまも「在日だから」というこだわりは、あまりありません。でも、自分自身、すなわち「個」を確立させるという意味で、アイデンティティを大切にしようとは考えています。


モヤモヤの中で「絶対に行くもんか!!」と思っていた東京へ

―― そこで、映画を目指して、東京へと向かうことになるんですね。
金 いや、そういうわけでもありません。大阪の人間としての変なプライドで、「東京なんか、絶対に行くもんか!!」と思っていましたからね。上京はまったくの成り行きで、むしろ屈辱でした(笑)。ただ、何となく大阪の大学に行って、卒業して何となくサラリーマンになるわけですが、1年経って悶々としてきた気持ちが湧き上がってきたんです。いわゆるモラトリアム状態ですね。
ちなみに親は商売をやっていて、僕は6人兄弟の末っ子でしたけど、兄弟みんなで店を継いで欲しかったみたいです。いま思えば、親の優しさだったと理解できるのですが、当時はそんな「ぬるま湯感」が許せないと感じていました。

―― 実際に東京に出て、変化はありましたか?


金 鬱積した気分は、しばらくは変わりませんでした。というより、アルバイトと生活に明け暮れて、「俺は何なんだ!!」って気持ちは、さらに積もっていったような気がします。
そんな時、「潤の街」で知り合った先輩から、「お前、映画やりたくない?!」って聞かれたんです。で、演出をやりたいのなら崔 洋一監督、撮影をやりたいのなら篠田 昇監督を紹介するって言われたんですけど、映画の世界って、いわゆる徒弟制度でしょ。2人とも怖いって聞いていたので、躊躇してしまったんです。それにすでに25歳くらいになっていて、その世界ですでに助手を務めている人たちが自分より年下だってことも、自分としては気に入らなかったことを覚えています(笑)。
とはいえ、子どもが生まれるタイミングでもあったので、「何かやらんと!!」って気持ちは強くありました。で、選んだのが料理写真。1988年~90年まで2年間、吉森写真事務所にて料理写真家の助手を務めました。いま思えば生意気で、カメラマンの方々に失礼なことなんですけど、「写真だったら、カメラの扱いさえ覚えれば俺でもできる」って、簡単に思ってしまったんです。
ちょうどバブルの頃でしたので、仕事は山ほどありました。そこで、稼ぐためにスチールだけではなく、映像の世界にも飛び込み、PRビデオやテレビ、映画などの助監督を務めるようになるわけです。

―― いよいよ映画への芽生えですね。


金 いや、まだまだ成り行きでした(笑)。確かに映像の面白さは分ってきましたが、その一方で、そんなに儲からない世界であることも分かってきましたからね(笑)。
とはいえ、頼まれ仕事を続けていく中で、「もっとやりたいことがある!! 撮りたいものがある!!」という自我も生まれてきました。
で、自問自答するわけですが、その時に確実に思ったのは、「どうせやるなら、言い訳ナシでやろう」ということでした。いわゆる請負仕事は、時間や製作費の制約があって、何だかんだ、それを言い訳にしてきたところがあります。でも、それじゃ駄目なんだ……と。

自分発・自分初の映画は、歴史ありきではなく、人ありきで

―― 自分自身の作品を撮りたくなってきたと。そこには何か、ターニングポイントみたいなものがあったのですか?


金 やっぱり、1997年に発表された呉徳洙(オ・ドクス)監督のドキュメンタリー映画「在日~戦後在日50年史」に助監督として関わったことが大きかったと思います。日本映画ペンクラブで1位、キネマ旬報で2位を獲得するなど、高い評価を得たドキュメンタリー映画ですが、現場は言葉にできないほど大変でした。1年の予定が3年も拘束されたり、当然ながらギャラも惨憺たるもので、その日の生活にも困っていたくらいでした。周りも辞めていく人が少なくありませんでしたが、何故か僕はその時、「絶対にケツを割らない!!」って、覚悟を決めたんですね。いま思えば、それも性だったのかもしれません。そういう経験を踏まえて、「在日」ということに真摯に向き合えるとともに、映画監督として自立したいと思うようになったことは確かです。

―― その経験が、監督デビュー作の「花はんめ」につながったというわけですか?


金 そうだと思います。ただ、自分発かつ自分初の映画としては、いわゆる「歴史ありき」のスタンスに立ったものは作りたくありませんでした。むしろ、在日が持っている強さや優しさを通じて、歴史を遡れたらと考えました。
「花はんめ」は、川崎市臨海部の工業地帯に近接するガチな下町ゾーン、桜本のコリアンタウンに暮らす在日一世のはんめ(おばあちゃん)たちの日常を追った記録映画ですが、波乱の人生を生き抜いてきたはずの彼女たちが、「いま」を謳歌する姿を撮ることで、在日一世が持つ強さとか、優しさといった「人間らしさ」を描いてみたくなったのです。

―― そういう意味で「花はんめ」は、従来と全く異なる「在日」の捉え方だったと思います。


金 そう言っていただけると嬉しいですね。まぁ、これは僕が歴史を背負って生きてきた在日一世ではなく、日本に馴染んで生きてきた在日二世だからかもしれませんが、植民地支配から解放へと向かう苦難の歴史も大切だけど、「在日っていうのはそれだけじゃないよ」ってことを感じていました。それは、言葉ではうまく言い表せないのですが、敢えて言うならば、先にお話した強さや優しさのようなイメージです。そして、言葉にはできない世界があるなら、映像ならではの手法で、それを追究したいと考えたのです。

理不尽な体験を引き受けて生きてきた人だけが持つ「輝き」に焦点を

―― 歴史観やイデオロギーに縛られないスタンスは、その後の「冤罪3部作」にも通じるものがあるように思えますが?


金 そうですね。理不尽で不条理な経験・体験をし、それを引き受けて生きてきた人だけが有する「輝き」にスポットライトを当てたいという意味では共通していると思います。つまり、冤罪においても、「事件」ではなく、「人」を撮りたかったということです。

―― 確かに「冤罪3部作」に出てくる人たちは皆、ユニークですよね。


金 そうなんです。冤罪をテーマにするようになったきっかけは、人権ビデオシリーズ」といった教材映像の制作を請け負って、狭山事件で逮捕・起訴されて刑に処され、いまなお再審請求中の石川一雄さん夫妻に出会ったことが始まりです。
もちろん、狭山事件や石川さんのことは本や新聞を読んで知っていましたので、肌感覚として怖い人なんだと思い込んでいました。ところが会ってみると、自分が描いていたイメージとは全く違う気さくな方でした。しかも、奥さまである早智子さんとの掛け合いが、妙にチグハグで微笑ましい。既成概念で「怖い人」だと思い込んでいた自分の偏見を情けなく思いましたし、多くの人も自分と同じように捉えているような気がして懸念が高まりました。
そこで、ご夫妻に3年間寄り添って撮ったのが、冤罪シリーズ第1作の「SAYAMA みえない手錠をはずすまで(2013年)」でした。冤罪により不条理な服役を強いられた石川さんは、確かに災難で、いまもなお、苦難の道を歩いています。でも、彼が「不幸か?」といえば、僕にはそう感じられず、むしろ幸せそうに見えました。そんな石川さんの生き方は「幸せとは」、「愛とは」、「友情とは」、そして「正義とは」といった、人間にとって普遍的なテーマを考えさせてくれます。だからこそ、僕は撮りたくなったのです。
冤罪をテーマとした映画と言えば、真相解明に迫るというのがこれまでの定石でした。でも、ここでも「それだけじゃない」という思いが芽生えて、ご夫妻のラブストーリーのようなものに仕上げたいと思った次第です。

―― 続いて袴田巌さんを主人公にした『袴田巌 夢の間の世の中(2015年)』で再審決定により釈放された袴田 巌氏が拘禁反応によるダメージを抱えながら、徐々に日常を取り戻していく姿を撮り、そして足利事件の被疑者であった菅家利和氏の無罪釈放をきっかけに、同じ“殺人犯”の濡れ衣を着せられた布川事件の桜井昌司氏、狭山事件の石川一雄氏、袴田巖氏の人生と友情に迫る「獄友(2018年)」を発表するわけですが、そこにはやはり関連性があるわけですね。


金 関連性というよりも、連鎖反応に近いかもしれません。袴田さんを撮ることになるきっかけは、諦めずに必死に無罪のアピールを続ける石川さんの姿を久しぶりに撮影しに行った時のことでした。奇跡的なタイミングで「袴田事件再審決定!!」の一報が入り、その時の石川さんや早智子さん、そして支援者たちが手を取り合っての笑顔と涙に遭遇したからです。何か縁を感じたのでしょうね。
しかし、48年ぶりに解放された袴田巌さんの姿は、強制的に自由を抑圧される想像も及ばない奪われた時間を経て、拘禁反応が生じていました。釈放された数日後、石川一雄さんと一緒に袴田さんを訪ね、ずっと支えつづけた姉の秀子さんともお会いしました。僕は、その眩しい笑顔に圧倒されました。困難を乗り越えた人だけが放つ輝きを感じたからです。「いましかない!!」と、後先考えずに「袴田映画プロジェクト」が動き始めました。

「"不運"だったけど、"不幸"ではない、我が人生に悔いなし」と語る獄友同窓会

―― 1作目と2作目は、個人を主人公に周囲を含めた人間模様を描いていましたが、3作目の「獄友」では足利事件の菅家利和さん、布川事件の桜井昌司さんと杉山卓男さん、そして石川さん、袴田さんといった5人の人生と友情に迫っています。それは、やはり発展形なんでしょうか?


金 菅家さんの無罪釈放をきっかけに、5人はいままでなかった横のつながりを築いていきます。冤罪という不条理な世界、刑務所という特別な空間を生き抜いてきた彼らにとって、「獄中」は、まさしく青春を過ごした場所。その共通点を探りつつ、個々の人間としての魅力をより鮮明に表現したいと考えました。
というのも僕は、冤罪被害という理不尽きわまりない仕打ちを受けながら、無実を証明されることを信じて懸命に生きてきた彼らの出会いは、きっと重苦しい雰囲気になるとばかり思っていて、最初は緊張して身構えていました。ところが彼らは自分たちのことを「獄友」と呼び、獄中での生活や仕事、食事のことを懐かしそうに語り、笑い飛ばす。ツッコミどころ満載のまさしく「同窓会」のような雰囲気でした。
例えば、石川さんは皆から「冤罪エリート」と呼ばれて一目置かれています。特に支援が厚かったからですが、当の石川さんもそれを意識してか、無意識のうちか、何となくそんなオーラを醸し出すんですよね。
また、桜井さんはやんちゃだった自分を振り返って、「捕まって良かった。捕まってなかったら、何をしでかしていたか分からない」なんてことまで言っちゃうわけです(笑)。自戒をこめたギャグなんでしょうけど、独特の響きを感じました。
また、裁判のやり直しを求めている袴田さんに対して、東京高裁が6月11日にまさかの「再審開始取り消し」決定を出した夜にお姉さんである秀子さんにお会いしたのですが、どんなに沈んでいらっしゃるかと思って、恐る恐る声を掛けると、「元気出しなさいよ、負けられるかって。何年やってきたと思ってんのよ」と言って、ワハッハと笑うんですよ。本当は喜ぶ姿を撮りに行って、こともあろうか不当な判決が出た直後で、僕自身、怒りと戸惑いに包まれていたただけに、逆に慰められたような気分になりました。
いずれにせよ、絶望の縁にいたはずの彼らは声を揃えて「"不運"だったけど、"不幸"ではない、我が人生に悔いなし」というわけです。そこには我々が知り得ない「真理」があり、だからこそ「獄友」を撮らなきゃなぁ、と強く思ったわけです。

―― 冤罪3部作は、同じスタッフで作られたのですか?


金 基本的にメインのスタッフは同じです。といっても、少人数でやっていますから。カッコ良く言えば、少数精鋭の同志って感じですかね。だから、僕が号令をかけるというよりも、スタッフ個々が自分のこととして能動的に関わってくれました。そういう意味では、非常に贅沢な作り方ができたなぁと実感しています。
また、音楽に関しては、3部作をきっかけに、冤罪で苦しむ人たちを、歌を通じて応援しようと「冤罪音楽プロジェクト イノセンス」が発足され、谷川俊太郎さんの作詩、小室等さんの作曲で「真実・事実・現実 あることないこと」の原曲が誕生。さらに多くの賛同ミュージシャンに関わっていただき、映画における「音楽の力」を存分に発揮できたのではないかと感謝しています。

力がある人間が死刑制度を利用できるとしたら、それは一種の虐殺

―― 冤罪というと、死刑制度との関りも大きいですね。例えば袴田さんは、釈放から4年経ちますが、長年にわたって死刑執行の恐怖にさいなまれてきた影響からか、拘禁反応に苦しんでいます。また、最近ではオウム真理教の一連の事件で死刑が確定していた麻原彰晃元死刑囚ら、教団幹部7人の死刑が執行されました。監督は、死刑制度についてどのようにお考えですか?


金 死刑制度についてはオウムの大量執行を受けて、「議論すべき」という機運が高まりつつあります。ただ、その一方で、「議論しちゃいけない」という風潮が根強く残っていることも事実です。
僕は個人的には、本当に殺人などの罪を起こしてしまった人がいたとして、それを死刑というカタチで裁くことには疑問を感じています。どんな命であろうと、制度があろうと、力によって「人を殺す」ということを正当化することはできないと考えるからです。特にオウムの場合は、「多分、世間も許すだろう、同調するだろう」といった分析もあったように思えます。そういう意味では、「罪は罪」、「裁きは裁き」と分けて考えることが、死刑制度の議論には必要だと思います。
もし、力がある人間が制度としての死刑を利用できるとしたら、それは一種の虐殺です。そういうことが、罷り通る世の中には、やはり恐怖を感じます。

―― でも、多くの人はそれを当たり前と受け止めて、恐怖や疑問を感じていないようにも思えます。それは何故でしょうか?


金 やはり、擦り込まれているのではないでしょうか? 「冤罪がおかしい」ということは、誰もが感じていることだと思います。一旦、死刑判決を受けた袴田さんや石川さんのことは、長い闘いを通じて、ようやく「冤罪」であるという認識が高まってきました。しかし、僕の映画を観てくれた人の中にも、袴田さんや石川さんは当然、冤罪だとしながらも、和歌山カレー事件の被告で、やはり容疑を否認している林真須美については、多くが疑いの余地なく「冤罪ではない」と答えます。確かにそう思える節もありますが、同時にマスコミなどの報道によって、擦り込まれている感も否めません。その時々の情報に左右される人間の性というか、本質にも恐ろしさを感じます。
また、三権分立といいますが、最近特に「司法」の危うさを感じることも増えています。例えば、先日の袴田さんの判決。静岡地裁が2014年3月に再審開始を決定していたにも関わらず、今回、東京高裁は地裁判決の決め手となったDNA型判定を「信用できない」として、再審請求を認めない決定をしました。しかも、その判断が正しいならば、袴田さんは再収監されてしかるべきなのに、死刑と拘置については釈放維持のままで逃げたわけです。まさしく、従来の再審をめぐる判例に反した曖昧かつ灰色の判決と言えます。
当然、弁援団はこれを不服として特別抗告(各訴訟法で不服を申し立てることができない決定・命令に対して、その裁判に憲法解釈の誤りその他憲法違反を理由とするときに、特に最高裁判所に判断を求める抗告)したので、今後は最高裁で争われることになりますが、その判決によっては、再収監、死刑判決ということもあり得ないわけではないのです。

―― そういう司法や権力の危うさの中で、冤罪3部作の登場人物には、共通した明るさや強さがあります。それはどこから来るものなのか? 監督の映画は、そういうことを感じて、考える機会を与えてくれます。その辺りは、何か意識されているのですか?


金 そうですね。常にこれが正しいとか、こうあるべきとかいうような説教じみた映画にはしたくないとは思っています。確かに冤罪においては、不当性を追求することは大切です。でも僕は、被写体が醸し出す世界から、何かを感じてもらうことを優先しています。それは親近感だったり、優しさだったり、強さだったり、滑稽さだったり、人によって捉え方はさまざまだと思います。それでも何かを感じて、考えていただければ、報道だけでは分からなかった「何か」が浮き彫りになってくるんじゃないかと思っています。
映画でできることは限られているかもしれませんが、ボクシングのボディブローのように、後から効いてくる力が、映画にはあるんじゃないかなと信じています。

フィクションも含めた「映画」という同じ土俵で切磋琢磨したい

―― 監督は、いわゆるドキュメンタリー映画というジャンルで勝負されていますが、現在の日本の映画界について思うことはありますか?


金 それはたくさんあります(笑)。まずは日本アカデミー賞やキネマ旬報のベスト10にはドキュメンタリーというカテゴリーがない。つまり、ドキュメンタリー映画というだけで、いわゆる劇映画(フィクション)とは異なる特殊なものだと認識されているのです。一応、毎日映画コンクールにはあって僕も賞をいただいことがありますが、いまだにナチス・ドイツや戦時の日本の文化統制下に確立された「文化映画」というイメージを拭い切れていないような気がします。その結果、市場はもちろんですが、評価も別物として考えられています。
一方、アメリカのアカデミー賞ではドキュメンタリー映画がもっと明確な位置付けとなっています。また、フランスのカンヌ国際映画祭でも2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件をめぐるブッシュ政権の対応を批判したマイケル・ムーア監督の「華氏911」が最高賞パルム・ドールを受賞するなど、海外では劇映画もドキュメンタリーも分け隔てなく「映画」というジャンルの一翼を担っています。
ですから、日本においてもまずは映画として同じ土俵で勝負できるような枠組みが築かれていくことを望みます。作品はもちろんですが、同時に撮影賞や音楽編集賞、脚色賞、編集賞、録音賞といった個人賞においても、同じ土俵の中で切磋琢磨していければ、作品的にも技術的にも、映画界全体が向上し、賑わっていくんじゃないかと考えています。

―― 映画界だけではなく、作り手や観客も変わっていかなければなりませんね。


金 もちろんです。これは劇映画にも言えることなんですけど、結局のところ、市場優先、経済優先になっていますよね。だから、ヒットする映画も漫画や小説などを題材とした「原作ありき」の発想で製作されるケースが増えています。もちろん、市場と作品のバランスは必要なのかもしれませんが、何か経済的な価値だけに向かっていっているような気がして仕方がありません。
一方、ドキュメンタリー映画においては、テーマを持ってというよりも、記録としての映像が増えているように思えます。ビデオカメラが日常のものとなり、しかもPC1台あれば、何となく編集までできちゃう時代ですからね。当然、記録も大事です。でも、1人で完結できることは限られています。やっぱり映画は、皆でガヤガヤ、喧々諤々の議論を重ねて、プラスアルファを創出していくもので、そこを観てもらいたいんじゃないかなぁって、僕は思っています。もちろん、「テーマがいい」だけじゃだめなんです。技術もそこに付いていって、ようやく作品として成立するんだと思います。
そういう意味で、作り手と観客は、一蓮托生というか、相乗効果を引き出す関係にあると考えています。作り手の作品がだめなら、観客も劣化する。いい作品に出会ったら、映画を観る眼が変わってくる。だから、どんどん映画館に足を運んでいただきたいと思います(笑)。

―― とはいえ、ドキュメンタリー映画は特に集客が難しいですよね。


金 そうなんです(笑)。正直言って、社会派と呼ばれるような問題意識を持った人たちの非常に狭いパイの中で、グルグル回っているような感じです。例えば、沖縄をテーマにした映画を観た人が、たまたま「獄友」を観てくれるというような(笑)。
もちろん、僕たちも一生懸命に宣伝しているんですよ。徐々にですが、取り上げてくれるメディアも増えてきました。それでも、なかなか社会派中心のスパイラルから抜け出せないんですよ(笑)。とはいえ、地方の単館映画館なんかで、地域のおっちゃんやおばちゃんたちが日常的に通って、館主が選んだ作品を楽しむような場所もできつつあって、そこで良質のドキュメンタリー映画が上映されたりもしています。また、自主上映という方法も浸透しつつあります。まぁ、僕たちとしては映画館での上映を想定して、そういう環境で観ていただくように音声や字幕などのバランスを整えてはいるのですが、機会が増えることは嬉しい限り。もっともっと、いろいろな方法で、映画を観ていただく機会を増やしていきたいと考えています。

―― 最後に監督の次作についての構想を教えてください。


金 冤罪をテーマにした作品は、取り敢えず3部作でシーズン1終了としますが、やり残したこともたくさんあるので、再度、機が熟するのを待とうと考えています。
次作については、宿題が多すぎて困っています(笑)。やりたいこと、やるべきことを含めて、正直悩んでいるところです。知的障害者を積極的に受け入れて独自の経営を貫いている奈良の植村牧場、川崎のはんめたちの安保法制反対デモとそれに対するヘイト、師匠ともいえる故呉 徳洙監督が残したフィルムからの再考、実家の近所に住んでいた憂歌団のヴォーカル・木村 充揮の生き方……。まだ決めてはいませんが、乞うご期待ということで宜しくお願いします。